
Oussama Ammar
かわいさは、あなたが思っているものとは違う
ポールという創業者がBetter Call Oussを予約した。
こうした相談にはたくさん乗っている。その多くは、記憶の中で混ざり合う。創業者たちは資料や市場の話、共同創業者や株主構成の問題を持ってくる。1時間で直せることを直して、次に進む。
ポールが持ってきたのは、マスコットだった。
彼が作ったMaskoは、AIでアニメーションキャラクターを生成するツールだ。キャラクターを言葉で説明するか、画像を1枚アップロードすると、ポーズ、動き、感情の状態をシステムが作ってくれる。デュオリンゴのフクロウを、サービスにしたようなものだ。誰でも、自分だけのキャラクターを持てる。
そのとき、二つのことを同時に考えたのを覚えている。一つ目は、これはおもちゃだ、ということ。二つ目は、私が見てきた最も重要な企業は、どこもまさにこの段階ではおもちゃに見えた、ということだった。
そこで、こういう相談ではめったにしないことをした。助言をやめて、企み始めたのだ。ビジネスモデルが間違っているとポールに伝えた。デザイナーにクレジットを売るのは、プラットフォームにツールの値段をつけているようなものだ。Maskoは本当は何になれるのか、私の考えを話した。そして投資した。自分でもリスクを負って初めて、はっきり見えるアイデアがあるからだ。
そのアイデアを話そう。
誰も作っていない層
知能を作る競争では、より大きなモデル、より優れたエージェント、より長い自律動作が評価されやすい。能力は測定できるため、自然と注目の中心になる。
その知能が人間に触れる層を作っている人は、ほとんどいない。
今、あなたのAIはどんな見た目をしているだろう。ターミナル。チャット欄。灰色で、冷たく、最適化され、無機質だ。私たちの生涯で最も強力な技術が、税務申告書ほどの温かみしかない姿で現れる。
Maskoは、拍子抜けするほど日常的なものから、この問題に取り組み始める。通知だ。コーディングエージェントが作業を終えると、黙ってログが1行増える代わりに、画面の小さなキャラクターが知らせてくれる。ビルドが通れば手を振る。何かが壊れれば、心配そうな顔をする。機械があなたを必要とすると、呼び戻してくれる。
通知のマスコット。それだけだ。それが最初の足がかりになる。
だが、足がかりとは日常的なものでいい。アマゾンが最初に売ったのは本だった。iPhoneが最初に置き換えたのはキーパッドだ。誰かの画面で、毎日、ごく小さく普通の形で役に立つ。その積み重ねによって、やがて一つの層になる資格を得る。
目標は言うのは簡単で、作るのはとても難しい。機械と働くときに、喜びを感じられること。遊び心を持てること。機械を、そばにいる仲間のように感じられること。
ここで本題に入る。Maskoの背後には一つの理論がある。それは、かわいさについての理論だ。
かわいさの理論
多くの人は、かわいさとは、小さくて、愛らしく、子どもっぽく、きれいなことだと思っている。まだ大人になっていない人のための飾りだと。
私は、かわいさは既存の仕組みに対抗するものだと思う。
私たちが「真面目」と呼ぶものを見てほしい。真面目とは、削ぎ落とすことだ。色を削る。感情を削る。装飾も、柔らかさも、空想も、遊びも削る。残ったものが、職業的で、中立で、大人らしいとされる。私たちは、この引き算の上に文化全体を築いてきた。そして、なぜ何もかも死んだように感じるのかと首をかしげた。
かわいさは、その真面目さが強制になる地点で始まる。感情まで切り詰めることへの拒否だ。ピンク、カワイイ、飾りつけた日記帳、妖精のドレス、ステッカーだらけのサイバーデッキ。その一つ一つが、感情を持つ自分を世界に奪わせない、という意思表示なのだ。
そして、ほとんどの人が見落としていることがある。かわいさは、衣装を着た弱さではない。傷つきやすさを、自分で動く力に変える。柔らかな人だと見られることではなく、世界を見返すときの枠組みとして、自ら柔らかさを選ぶことだ。壊れやすいことと、世界がどんなものかを十分に知りながら、それでも心を開いておくと決めることは違う。
かわいさは、幼稚にならずに、自分の中の子どもを守る。羞恥心が欲望を並べ替える前、世間の評価が何を欲しがってよいかを教える前に、好きだったものへと戻る。ノートの余白にキャラクターを描いていた子どもは、消えたわけではない。隠れることを覚えただけだ。
かわいさの背後には、私たちが見ないふりをしている知の蓄積もある。色は、過剰な装飾ではない。多くの人間文化では、感情や神秘、意味を担っていた。それを私たちは、たかだか1世紀ほどでオフィスやソフトウェアから抜き取った。装飾は無駄ではない。飾ることは、思いやりを目に見える形にすることだ。毎晩誰かが絵を描く日記帳、誰かが整える机、誰かが自分仕様にする端末。それは神聖な時間だ。物に向けて実践される、献身なのだ。
役に立たないことさえ、意味がある。かわいさは最適化を拒む。その拒否こそが、生産性至上主義への抵抗になる。ハローキティをKPIで測ることはできない。そして、キティ自身が別の仕組みを示している。その顔にはほとんど表情がなく、その余白こそが価値なのだ。人はそこに、自分の感情を投影する。かわいいものは、気持ちの落ち着き先をくれる。ベビースキーマを研究する人々は、これが感傷ではないと知っている。丸さや柔らかさは、神経系を鎮め、世話をしたい気持ちを誘うことが測定できる。かわいさは、私たちを整えてくれる。
それなら、なぜ軽んじられるのか。答えに正直になろう。かわいさが周縁に追いやられるのは、周縁に置かれた人々と結びついているからだ。少女。女性性。クィアであること。子ども。手仕事をする人。東洋の美意識。インターネット育ちの若者。感情のある暮らしそのもの。私たちは、かわいさは真剣なものではないと結論づけたのではない。それを愛する人たちが真剣ではないと決めつけたのだ。
はっきり言おう。かわいさは無垢ではない。勇気だ。その柔らかさは、世界を知らない人の柔らかさではない。世界と出会い、それでも鎧だけの存在になることを拒んだ人の柔らかさだ。
機械に再び魔法をかける
今、この二つをつなげてみよう。
機械との会話が日常生活の一部になるほど、インターフェースの選択は重要になる。灰色で、冷たく、効率的で、感情を語らない美意識が初期設定になれば、引き算の文化が、私たちの生活に深く入り込む技術に組み込まれる。
Maskoは、その初期設定に逆らう賭けだ。技術は、親密で、飾りがあり、詩的で、仲間のようになれるという賭け。人間とAIの間にあるべきものはターミナルではなく、キャラクターだという賭け。喜びは最後に付け足す機能ではなく、設計の土台なのだという賭け。
コードのコンパイルが終わると手を振ってくれる、小さな生き物から始まる。
そこで終わりはしない。
Daedalium に初掲載。