
Oussama Ammar
ポール・エルデシュの五百ドル
AIがまた歴史を刻んだのに、みんなまるで気にしていないという話。
フランス語の原文は Flâneries Libres に掲載されています。
1995年頃、八十二歳の老人が賭け金を引き上げる。1946年に彼が出した問題は、半世紀にわたって解かれずにいる。解いた者には三百ドルを払うと約束していた。懸賞金を五百ドルに増やす。彼なりのやり方で、単純なことを言っているのだ。自分が正しいと強く信じているからこそ、間違いを証明してくれる人に金を払う、と。
ポール・エルデシュは翌年に亡くなる。金を受け取った人はいない。自分の見立ては正しかったと信じたまま、この世を去った。
彼は間違っていた。先月、それがわかった。そして、それを証明したのは数学者ではない。

自分の問いに金を払った男
エルデシュは科学史の中でも特異な人物だ。1913年生まれのハンガリー人。家も定職も持たず、ほとんど何も所有せず、スーツケース一つで大学から大学へ移り、人の家を泊まり歩き、数学だけのために生きた。およそ千五百もの問題を出した。その多くに懸賞金をつけ、金額が難しさを示していた。手の届く問題には数ドル、彼をあざ笑うような問題には数百ドル。
本当に払っていた。ある日、ジョージア州の町へ車で向かう途中、同僚が証明したばかりの定理について話した。エルデシュは、それに自分が懸賞金をつけていなかったかと尋ねる。二人は図書館に寄り道して確かめた。懸賞金はあった。百ドルだ。エルデシュは払った。ずいぶん高いタクシー代だね、と言われて、彼は大いに笑った。
私が話している五百ドルの問題には、単位距離問題という堅い名前がついている。だが、テーブルの片隅で説明できる問題だ。
紙一枚でわかる問題
紙に点を置く。まったく同じ距離、たとえば一センチメートル離れている点の組を数える。
二点なら一組。正三角形なら三組。点を増やし、ちょうど一センチ離れた組が最も多くなる配置を探す。
エルデシュの問いは一文で言える。点が何百万個にもなったとき、ほかのすべてに勝る配置は何か。
八十年間、答えは決まっているように見えた。格子だ。方眼紙の交点に点を置く。規則的で、密で、効率がよい。エルデシュは、この格子である数の組を実現できると証明し、それを大幅に上回る者はいないと賭けた。分野全体が彼に従った。第一人者たちが何十年も挑み、別々の道を通っては同じ限界に戻り、突破口はついに見えなかった。
先月、OpenAIのモデルが、格子を上回れると示した。偶然の特殊な例ではない。点の数が増えても成り立つ構成によって、一般的に上回ったのだ。フィールズ賞受賞者のガワーズは、人間がこの証明を書いて学術誌に投稿していたなら、ためらわず掲載に賛成しただろうと語った。
なぜ誰も見つけられなかったのか
ここから話は面白くなる。数学の話ではなく、私たち自身の話になる。
みんなが野原で宝を探していると想像してほしい。八十年間、野原を掘っている。宝は野原にあるに決まっているからだ。モデルは隣の森へ行って掘った。宝は森にあった。
森には名前がある。代数的整数論だ。紙の上の点とは何の関係もないように見える数学の領域。そこへ行くべきだという手がかりが何もなかったから、誰も探しに行かなかった。
エルデシュ問題の一覧を管理する数学者トーマス・ブルームは、答えを見つけるには一人の人間に何がそろっていなければならなかったかを説明した。決して共存しない四つのこと。途方もない時間を注ぐこと。専門家全体が正しいと信じるエルデシュを間違いだと証明しようと、何か月も流れに逆らうこと。森を見に行くという突飛な発想を持つこと。そして、遠いその森で迷わないほど、そこをよく知っていること。
その四条件を満たす人間はいない。いたとしても、半世紀の合意に逆張りするより、キャリアのためにもっと有益なことがある。全員が宝は野原にあると断言するのに、人生の三年を森掘りに捧げはしない。割に合わない計算だ。そして人間は、計算する動物である。
機械はそんな計算をしない。キャリアも、傷ついて血を流す自尊心も、同業者の前で守るべき評判もない。森を掘ったのは、あらゆる場所を掘るからだ。宝がどこにあるはずかという先入観を持たない。そこは探してはいけない場所だとは知らなかった。
この発見が傷つけるもの
私たちは、発見についてのある物語に強く執着している。天才がひらめく。リンゴが落ち、ニュートンが理解する。優れた頭脳が、ほかの人に見えなかったものを一瞬で見抜く。この話が好きなのは、偉大な頭脳を自然の例外にし、直観を説明も再現もできない火花にしてくれるからだ。
この機械は、その物語に傷をつける。
ひらめきはなかった。一閃のうちに真理を見抜いたわけでもない。逆のことをした。私たちが先回りして見切りをつけた道を、飽くことなく探索した。誰もが閉まっていると思った扉を押した。ただ、それが扉であり、機械はすべてを試すからだ。
この話を読んで以来、ある問いが頭から離れない。直観には、初めから魔法などなかったのではないか。偉大な数学者の勘もまた探索にすぎず、隣の人より遠く、速く進むだけで、同じ素材からできているのではないか。私たちはもっと控えめな真実と向き合いたくなくて、天賦の才という考えを発明したのかもしれない。天才は、他人に見えないものを見るのではない。諦める前に、もう少し長く掘るのだ。
ここで何が起きたのか、見てほしい。問題が八十年も解けなかったのは、人間の知性には難しすぎたからではない。これほど望みの薄い方向を、これほど長く探索できる、あるいは探索したい脳がなかったからだ。才能の問題ではなかった。忍耐と寿命の問題だった。私たちは早く死にすぎる。飽きる。終わりが来る前に賭けが報われる必要がある。他人に見られながら間違う屈辱を恐れる。機械はそのどれにも縛られない。疲れず、計算の途中で死なず、恥も感じない。
私たちが知性の気高さだと思っていたものは、自らの限界が落とす影にすぎなかったのかもしれない。
私に残るもの
人間の知性に価値がない、と結論するのではない。その栄光の一つである至高の直観は、おそらく、閃光に見せかけた地道な仕事について私たちが語る伝説だった、と結論する。
慰めは一つ残る。どれほど長く持つかはわからない。機械は森を探したが、野原を示したのは人間だった。問題を解いたのは機械だが、半世紀前、その問題には一生と五百ドルをかける価値があると判断したのはエルデシュだった。問いを選び、身をすり減らしてでも取り組む価値があると決めることは、まだ機械の手に渡っていない。その選択が本当に趣味や意味に属するのか、それとも、まだ機械化し終えていない探索にすぎないのかは、なおわからない。
答えは持っていない。ただ、肩をすくめて済ませるには惜しい問いだと思う。機械が一段越えるたびに、私たちはその段を動かすからだ。昨日は中学校の問題も解けなかった機械が、今日はエルデシュを反駁する。するともう、それは本当には数に入らない、それは思考ではないと説明する人がいる。ハードルを動かし続けたせいで、もうどこにあるのかもわからない。自分自身と決して向き合わずに済む、上品なやり方だ。
美しい証明は、脳から生まれようとグラフィックボードから生まれようと、美しいままだ。真理は誰が見つけたかを気にしない。私たちは気にする。私たちの天才がシャベルを持って行こうとすら思わなかった場所を、機械が掘ったと知ったときのあの動揺。そんなに難しくなかったと繰り返して追い払うより、正面から見つめるほうが、はるかによいと私は思う。
エルデシュなら五百ドルを払っただろう。見事な話だと思い、図書館への寄り道は、前のとき以上におかしいと笑っただろう。
また来週……
Better Call Oussは売り込みの場ではなく、本音の会話だ。そのままの自分で来てほしい。混乱のただ中でも、曖昧なアイデアでも、停滞した事業でも、すでに始めたプロジェクトでもいい。気取らず、取り繕わず。物事を正面から見て、すべてをテーブルに出し、もっと明瞭な視界と、もっと大きなエネルギー、そして多くの場合はシンプルな行動計画を持ち帰る。すべてをわかっている人のためではない。前に進みたい人のための時間だ。