Oussama
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「身体は衣装だ」のイラスト

Oussama Ammar

身体は衣装だ

あるいは、唯物論者とシャーマンが同じ愚か者であるという話

フランス語の原文は Flâneries Libres に掲載されています。

子どもを一人連れてくる。プラスチックのバッジとおもちゃのヘルメットを渡す。五分後には警官だ。十分後には医者。三十分もすれば宇宙飛行士になっている。衣装が役になる。本人は信じる。あなたも信じる。部屋にいる全員が、その遊びに乗る。

大人の私たちは、自分は衣装を着ていないと言い聞かせる。「自分自身」でいるのだと。それが何を意味するにせよ。

だが、身体も衣装だ。皮膚は六週間ごとに入れ替わる。腸の壁は三日ごと。目の黄斑は四十八時間ごと。肝臓は二か月ごと。神経系のすべての神経は、およそ三十五週間で更新される。物理的には、あなたが「私」と呼ぶものは、八か月前のあなたとはほとんど別物だ。原子は違う。形は同じ。パターンも、おおむね同じ。

衣装の内側に、何かが残った。形が残った。その形が構造上何であるかは、ここでは問わない。

身体の内側に「あなた」がいると認めるなら、自己でも魂でも、受け入れられる言葉で呼べばいいが、身体は服ということになる。その何かが物理的現実を歩き回るために身につけるものだ。多くの人は、あまり考えずに受け入れる。無神論者の多くも、スローガンの先まで問い詰めれば、そうだ。

同じ論理を宇宙に当てはめてみる。

宇宙も形だ。物質があり、重力があり、時間がある。一つの身体である。ならば、内側に何もない身体なのか、あなたと同じように、何かがある身体なのか。「私には魂があるが、宇宙にはない」は一貫しない。形は意識を包む衣服なのか、そうでないのか。自分で擁護できる側を選べばいい。

これは構造についての議論だ。宗教家はあまり好まない。唯物論者はもっと嫌う。どちらの陣営も、何十年もこの問いを真剣に立てずに過ごしてきた。

なぜ真面目な科学は、このすべてに一世紀も遅れてやって来たのだろう。

分かれ道

どんな大発見も、発見した人に同じ分かれ道を差し出してきたのだと私は思う。

植物が病気を治せると初めて理解した人間を想像してほしい。その人は分かれ道に立っていた。一つ目の道は、部族に植物を説明し、名をつけ、絵に描き、伝えていくこと。あらゆる身体の苦しみを、一度に少し軽くする。二つ目の道は、複雑な儀式、正しい歌、しかるべき入場料で植物を包むこと。自分だけがそれを与える資格を持つ者になる。

一つ目の道は負担を軽くする。二つ目は権力を生む。

私は前者を科学の姿勢、後者をシャーマンの姿勢と呼ぶ。姿勢の話だ。名刺の肩書きは関係ない。シャーマンでも科学の姿勢を取れる。植物を分け、用量を教える。科学者でもシャーマンの姿勢を取れる。研究結果を、自分の研究室の外では誰にも解読できない専門用語で包み、会議への参加を選別し、博士号もないのに論文を読む人を鼻で笑う。

だから、あらゆる組み合わせがある。知識を本当に分かち合うシャーマン。独り占めするシャーマン。公表し、教え、再現を認める科学者。そして、司祭のように振る舞い、自分で検証したこともない正統を守り、それが機能していないと気づく人を狂人扱いする科学者。

私たちに百年を失わせたのは、この最後の集団だ。

大聖堂の代償

二十世紀のアカデミックな科学は、唯物論の上に大聖堂を建てた。意識は「脳の随伴現象」に格下げされた。あなたが考えることは何に対しても因果的な影響を持たない、と言うための洒落た表現だ。「魂」という言葉は、学者同士では口にしにくくなった。テレパシーや臨死体験、意図に対する物理系の反応を調べる人は、誰でも出口へ追いやられた。

研究は隠さなければならなかった。ロシアでは、同じ研究に公然と資金が出ていた。正統が違っただけだ。結局、両政府とも秘密裏に研究へ資金を出した。どちらの陣営も明確な軍事的優位を見いだせなくなったとき、論文は機密解除された。今では公開されている。科学者は実名で発表している。

正統を崩す理論は、どれも同じ循環をたどる。まず攻撃される。誰かのノーベル賞を踏みにじるからだ。次に認められるが、自明で取るに足らないと言われる。最後に、その分野の大物が、そのアイデアは十年前に自分も思いついていたと説明する。

大聖堂にひびが入っている。司祭たちが払いのけるより速く、データが積み重なった。

宇宙の真空は空ではない。最近の論文は、それを宇宙的プレナムと呼ぶ。十万キロ近く離れた二つの量子もつれ状態の粒子が、同時に状態を変える。遅延はゼロ。動物の身体の形は、細胞の周囲にある電磁場から生まれ、遺伝子は原材料を供給するだけだ。治癒とは電圧だ。第一線の物理学者が、すべてのものに意識があり、議論しているのは程度だけだと、査読付き学術誌に書いた。十五年前なら、その一文で彼のキャリアは終わっていただろう。

シャーマンの錠前

ここから、私の議論は友人の一部にとって居心地が悪くなる。

シャーマンも問題の一部なのだ。

サイケデリックスがわかりやすい例だ。DMTは本物だ。アヤワスカは本物だ。シロシビンは本物だ。それらが生む体験は、無作為な視覚ノイズではない。文化と世紀を越え、一度も接触したことのない大陸の間でも、語られる内容は同じ領域へ収束する。つながり。存在たち。自我の喪失。精神が知性と受け取る何かとの遭遇。人類がこれまで持った中で、意識の研究への最も直接的で、最も再現性の高い入り口だ。

それが何千年もの間、儀式の内側に閉じ込められてきた。

植物は儀式に包まれる。儀式には案内役が必要だ。案内役が入り口を管理する。立ち入ることは、資格を得るか、金を払うか、あるいは拒まれる特権になる。体験は本物だ。その周囲の錠前は、司祭がラテン語の聖書にかけたものと同じだ。門番になった科学者が査読付き学術誌にかけるものとも同じだ。衣装は違っても、何世紀にもわたり姿勢は同じ。

体験は本物だ。問題は錠前だ。

DMTの存在たちが実際には何であろうと、それには顕微鏡と対照群がふさわしい。羽根飾りの冠ではない。意図に対する真空の反応には研究予算がふさわしい。グルではない。臨死体験の証言にはデータベースがふさわしい。魂があるのなら、魂には計測器がふさわしい。

これらをシャーマンの手から取り戻そう。唯物論の司祭の手からも取り戻そう。実験台の上に置こう。真面目な人たちが、用量を定め、対照を設け、見つかったことを話す覚悟を持って研究できる場所に。見つかったものが、どちら側の大聖堂を困らせるとしても。

開示

私たちは開示の時代の入り口にいるのだと思う。

人々が口を開き始めている。何十年も機密だった計画が日の目を見ている。臨死体験の研究、遠隔透視、軍が実際に何を測定したのか。意識への関心を三十年間隠してきた研究者が、実名で発表している。会議でひそひそ話をしていた物理学者が、本を書いている。

両側の錠前が同時に外れかけている。唯物論の大聖堂にひびが入る。シャーマンの独占にもひびが入る。形の背後にあるものは、宗教を売らず、正統も守らない人々に、ようやく観察することを許される。

身体は衣装だ。惑星は衣装だ。銀河は衣装だ。形は科学が測るものだ。その形をまとうものが、あらゆることを起こしている。長い間、それを研究する権利はなかった。今はある。

どうやら、新しいこだわりができたらしい。

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**ついでに。**この領域で仕事をしているなら、意識の計測技術、儀式の枠組みの外で行う真剣なサイケデリックス研究、物理系への意図の影響の測定、臨死体験、五年前には大聖堂がまだ関わってはいけないと見なしていたあらゆることについて、私に連絡してほしい。このテーマの風変わりな投資案件に関心がある。周縁にあるほどいい。

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