Oussama
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「かけがえのない存在でいたいという欲求」のイラスト

Oussama Ammar

かけがえのない存在でいたいという欲求

誰もが抱く欲求だが、その先行きは明るくない。

フランス語の原文は Flâneries Libres に掲載されています。

先日、Flânerie Libreに書いた文章について、かなり癪に障る指摘を受けた。その文章で私は、人工知能がほとんど何でもできるようになっても、センスや判断、物事に価値を与えるある種のやり方は、人間のものとして残るだろうと説明していた。

ある人が、奪われずに済むものを探しているベビーブーマーみたいだ、と返してきた。

ばかな指摘だと思いたかった。問題は、それが正しかったことだ。

私は日中、AIを使って会社を作っている。何が可能になるかを見て、そこに賭け、それで暮らしている。ところが夜になると、平然と、ここから先は越えてはいけないという小さな境界をAIに引いていた。コードも、計算も、面倒な仕事も持っていっていい。だが、センスはだめだ。センスは私の領分だった。

この役割分担には、とても人間らしいところがあった。そして、とても疑わしいところも。

それ以来、いくつか試してみて、私の確信は傷ついた。ある状況では、すでに私は多くの人間の選択よりAIの選択を好む。それでAIにセンスがあると証明されるわけではない。まして意識の証明ではない。だが、私の境界をずっと居心地の悪いものにするには十分だった。人間の性質として提示していたものは、ひょっとすると個人的な願望に近かったのかもしれない。

私たちはよくこういうことをする。進歩に止まってほしい場所を、「人間の本性」と呼ぶ。

「決して」は後回し

この時代を難しくしているのは、機械が私たちの予想した順序では進歩しないことだ。手の届かないように思えた仕事で驚かせる一方、簡単そうだった別の仕事ではこちらを疲れ果てさせる。私は文章を書くのに使っている。道徳的なためらいはまったくない。一つずつ形にするのに一時間かけなければならなかったなら、私のアイデアの多くは頭の中に残ったままだっただろう。AIはそれを共有できるものにする。結構なことだ。

だが、自分の人生から得た教訓を書こうとすると、AIの段落を直すほうが、自分で書くより時間がかかることがあった。文章は正しく、考えも自分のものとわかる。それでも、誰かが私の脳にアイロンをかけたような、苛立たしい感覚がある。すべてがなめらかになり、そのぶん的確さを失っていた。

ここから、声を再現することの不可能性について大きな理論を引き出すこともできる。今の私は、もっと控えめな結論を選ぶ。その文章を、その時点で書くには、私が手綱を取り戻したほうがよかった。「決して」は後回しでいい。

この慎み深さは売りにくい。人は、私たちがどこへ向かっているかを知っている人を好む。楽観主義者にはその未来があり、悲観主義者にもその未来があり、それぞれが、事実がようやく自分の正しさを示し始めたと説明する。私はむしろ、まだ理解できないことに耐えるために、私たちは信念を持っているのだと感じる。

自分の仕事にもそれが見える。私はAIがもっと有能になり、もっと安くなるほうに賭けている。その賭けが、私の作る会社の構造を決めている。だから、そう信じることに私の利益がある。それを認めたからといって、やめる必要はない。だが、自分の利益と証拠を混同してはいけない。

起業家は強い確信を持って行動すると同時に、その確信が誤りだと示しうるものを検討し続けなければならない。疲れることだ。自分の確信の営業マンになるほうが、よほど楽だろう。

現実は別の速さで進む

現場は、議論の中よりさらに混沌としている。巨額の金を動かしながら、こうした道具にほとんど触れていない企業に出会う。その一方で、すでに働き方が変わった個人を見る。毎日AIを使うチームの中ですら、差は大きい。いじり、試し、やり直し、ついには予想外の何かを得る人がいる。同じ道具を持ちながら、かなり平凡なものを大量に作る人もいる。

利用機会の普及は、使いこなす力の成熟よりはるかに速い。誰でも何かを作れるようにすることは、誰もが取りかかりたいと思うことでも、うまくいかない理由を理解する忍耐を持つことでもない。

だから私は、同じ一日の中で、すべてが変わったという感覚と、何も動いていないという感覚を味わえる。可能性は爆発的に増えた。習慣や恐れや力関係は、別の速さで進む。技術の実演は五分で終わる。それによって人々が変えなければならないことには、何か月もかかるかもしれない。

Naijmでは、この違いに絶えず出会う。企業にAIを導入するには、人々が何をしているかだけでなく、何を失うのを恐れているかを理解する必要がある。ばかげた仕事が地位を守っていることもある。簡単に共有できる情報が、それを抱える人の権力になっていることもある。それを無視すれば、誰も使いたがらない、とても賢い道具を納品することになる。

信頼が、この現実の中へ入ることを可能にする。一緒にすることの中で、守られた約束の中で、何かがうまくいかなかったときの対応の中で築かれる。明日、機械が信頼をどう扱えるようになるかはわからない。今日の私の仕事では、それが非常に大切だと知っている。

安心するためのダッシュボード

とはいえ、こうした複雑さを避けるには、もっと気持ちのよいやり方がある。ダッシュボードを作ることだ。

これについて私は、あまり科学的でない仮説を持っている。ある人がAIに出会ってどれくらいか知りたければ、その人が初めてダッシュボードを作った日を見ればいい。

熱中する気持ちはわかる。数分でグラフや色や指標が手に入る。それまで不完全な会話や、輪郭の曖昧な問題の集まりだった会社が、ついに一枚の画面に収まる。なかなか甘美な掌握感が生まれる。

ダッシュボードは役に立つこともある。だが、そこに出るのは、測ると決めたものだけだ。疑い始めた顧客、もう反論できなくなった同僚、間違った方向へ順調に進むプロジェクト。指標がすべて緑でも、そうしたものは見えないままでいられる。

私が気になるのは、見通しがよくなった安堵を、理解できた証拠だと私たちがいとも簡単に受け取ることだ。会社の表象が、会社そのものより魅力的になる。とりわけ、表象は三十秒で変えられるのに、現実を変えるにはつらい会話を三つ重ねなければならないときは。

するとAIは、独特なサービスを提供できる。私たちの悪い問いに、申し分のない形を与えるのだ。安心できる画面を求める。AIが作ってくれる。そして私たちは、その賢さを褒める。

自分に贈っていたもの

私はAIよりずっと前に、もっと私的な領域で、この混同を警戒することを学んだ。

恋をした女性のためにジュエリーをデザインし、作ってもらうのが好きだった。時間も気配りも楽しさも注いだ。一人だけのために考えた品物は、店で選んだジュエリーより価値があるはずだと、当然のように思っていた。

私にとっては当然だった。

その後、カルティエのジュエリーには、自分の作品では生み出せない喜びがあると認めざるをえなくなった。それは歴史と認知、すでに周囲に築かれた世界を伴ってやってくる。受け取る前から欲しいと思える。ほかの人もそれが何かとわかる。私が品物の外側にあると考えていたことは、体験のまぎれもない一部だった。

そんな喜びは浅薄だ、と説明することもできただろう。それは、相手にも自分と同じように感じろと要求する、上品な方法だったはずだ。やがて私は、その贈り物の中で、自分にもジュエリーをデザインする人である喜びを贈っていたのだと理解した。贈る相手の女性は、私が彼女に代わって意味を選んだ物語に参加していた。

今は両方買う。高くつくが、愛する人に哲学の授業をする必要は大幅に減る。

この経験は、価値について一つ教えてくれた。私たちは価値が物の中に含まれていると考えたがる。素材と労働と難しさを足せば、それを取り出せるかのように。だが、大切なものの一部は人と人の間で生まれる。物の価値は、贈る人、欲しがる人、結びつく記憶、それによって自分が占められる位置にもある。

そうした意味が作られたものだからといって、喜びが架空になるわけではない。ブランドの仕組みを完全に理解していても、その品物をもらってうれしいと思える。明晰さは欲望を自動的に消してはくれない。幸いなことに。理解しただけでもう好きでなくなるのなら、人生はずいぶん貧しくなるだろう。

このことは、AIが生むかもしれない豊かさについての私の考えを変える。作る費用が大幅に下がっても、私たちはおそらく区別し、好み、愛着を抱き続ける。由来や関係や共通の物語に価値を与える。物質としては取るに足らないものに、意味を込めることができる。愛する人が残した品物が何を意味するかを見れば、それで十分だ。

優しさも私たちをつなぎとめる

だが、この観察を新しい逃げ場にしたくはない。ものづくりの独占を失った後、今度は意味の独占を保ちたくなる。けれど、機械が心を動かす物語を語り、的確に助言し、愛着を持つほど長く寄り添ってくれるなら、それにいかなる権威も認めないという約束は、何の確かさに基づくのだろう。

センスには、導かれることを受け入れる人が必要だ。勧めが影響力を持つのは、そこに信頼を寄せるからだ。その信頼を永遠に人間だけに与えると断言できる根拠は、私には何もない。

だから、知性がどんな姿で現れるかは、とても重要になる。力で感心させるシステムでも、付き合いにくいままかもしれない。愛着を持てる小さなキャラクターが、最良の技術実演にも得られない居場所を、日常の中に見つけることもある。強さが妨げる関係を、優しさが可能にすることがある。

そして起業家として、その裏に何があるかもよく見える。心地よい存在は、また戻りたい、続けるために払いたいという気持ちも生む。利用者が感じる慰めと、企業の商業的利益は、同時に存在できる。そこがまさに面白い。誰かが金を稼いだ途端に体験が真摯でなくなると考えるのは、都合がよすぎる。その優しさゆえに無垢なのだと考えるのも、同じくらい都合がよい。

私たちは、まだほとんど知らない愛着を理解しなければならなくなる。不快だからという理由で不可能だと宣言するのは、それを経験するための準備として、妙なやり方だろう。

一番でなくても遊ぶ喜び

ほかのすべての問いの背後に、繰り返し現れる問いが残る。機械のほうがうまくできるなら、私たちには何が残るのか。

私はチェスを思い浮かべるのが好きだ。最高の人間の棋士は、最高のプログラムに追い越されている。それでも、誰もが一局勝ちたいと思い、序盤を研究し、二人の名手の対戦を見たがる。機械の優越は、人間のゲームから意味をすべて取り去ったわけではない。

私たちは宇宙で一番うまい存在であることを求めなくても、活動に面白さを見いだせる。車に勝つ必要がなくても走る。街で一番のレストランを名乗らなくても、友人に料理を作る。不思議なことに、知的能力の話になると、人生を面白いと認める前に、優位の保証を要求する。

その傷つきは理解できる。私の自己像の大きな部分は、自分のアイデア、可能性を見抜く力、語る力、説得する力の上に築かれてきた。機械がそのすべてを私よりうまくやるなら、チベット僧のような超然さでは迎えられない。だが、その優位を保つことに、生きる喜びのすべてを依存させないよう、今から試みることはできる。

経済の問題は残る。職業や収入や社会的な居場所を失うことは、チェスの楽しさを知ったからといって解決しない。幸福の可能性と、そうした喪失への答えを混同する気はまったくない。ただ、経済的優位が消えたからといって、活動全体が空虚になったと証明されるわけではない。システムがもっとよい文章を書けても、書くことは書き手にも読み手にも意味を持ち続けうる。

だからもう、AIが決してやらないことは何か、私にはよくわからない。その一覧に安心を築きたいとも、ますます思わなくなっている。未来に特別な居場所を保証してもらおうとせず、行動することを学びたい。作り続け、何が機能するかを確かめ、もう成り立たないものを手放す。そして、自分の予測どおりにならなかったという口実で世界を見逃さないだけの好奇心を保つ。

私は人生の一部を、物語を語ることに費やしてきた。ここ数年、その分野で現実は私にかなり屈辱的な授業をしている。自分に外出を許可するため、自分で証明書を記入しなければならなくなった日、脚本家には、私が自分に一度も許してこなかった自由があるのだとわかった。

あの場面は予想していなかった。次の場面を書けるかどうかも怪しい。それでも今のところ、私はまだそこに参加したくてたまらない。