
Oussama Ammar
栄光か、幸福か?
アキレウスは、すでに私たちに警告していた。
フランス語の原文は Flâneries Libres に掲載されています。
起業家に、資金を調達すべきか、急成長すべきか、独立を保つべきか、リスクを取るべきか、それともうまくいっているものを守るべきか、と問いかける。答えは、ずいぶん自信たっぷりに示される。けれど、どんな人生を送りたいのかを尋ねることは、ほとんどいつも忘れられている。
それこそ、ほかのすべてを決める問いなのに。ある助言は、あなたが嫌になるような人生を築くうえで、この上なく優れているかもしれない。完璧に実行し、約束された結果を手に入れたあとで、自分は何年もの間、誰かほかの人の望みのために働いてきたのだと気づくこともある。
私は、志を二つに分けて考えている。幸福と栄光だ。大きな言葉だが、その選択はとても具体的な決断のなかにある。好きなように暮らすために十分なものをすでに持っていて、新たな可能性を追うには、その均衡を再び賭けにさらさなければならないとしたら、どうするだろうか。
成功を望む二つのかたち
幸福を選ぶ人は、絶えずそこから逃げ出したくなることのない人生を築こうとする。自分の会社によってお金を稼ぎ、一緒に働く人を選び、自分の時間を使えるようにする。制約を受け入れるのは、その制約が、自分にとってもっと大切なものを守ってくれるからだ。
私は、この選択はまったく尊重されるべきものだと思う。利益の出る事業があり、長く付き合ってくれる顧客がいて、大切な人たちのための時間がある。それだけで、十分に成功したと言える。よい会社を帝国に変える道徳的な義務など、どこにもない。立ち止まることのできる人が、それのできない人に、自分の選択を弁明する必要はない。
栄光を選ぶ人は、別の満足を求めている。一つのアイデアがどこまで行けるのか、自分はどのような立場を築けるのか、何をこの世に生み出せるのかを知りたい。すでに十分なお金を稼いでいても、もたらしてくれる快適さより、はるかに大きな代償を払うことになるかもしれない事業に、力を注ぎ続けることがある。
その人は、つくる喜びを知っている。同時に、その喜びには、避けることもできたはずの心配事がいくつも伴うと受け入れている。私が栄光と幸福を区別するのは、この意味においてだ。喜びと悲しみのどちらを選ぶかという話ではない。分別のある人なら誰も穏やかとは呼ばないような人生のなかで、深く幸せでいることはできる。
違いが現れるのは、この二つの志がぶつかるときだ。自分の均衡を守ることと、頭から離れない可能性を追うことの間で選ばなければならないなら、どちらを失うことなら耐えられるだろうか。この問いには、きれいな言葉だけでは答えられない。

どの志にも代償がある
選ぶのは結果だけではない。それに伴う制約も選ぶことになる。
ある起業家は、自分で掌握できる規模に会社をとどめると決めるかもしれない。ある顧客を断り、ある市場を諦め、一つの機会を競合に譲ることもあるだろう。その断念によって、まさに望んでいた人生が手に入ることもある。そんな人を小さくまとまっていると批判するのは、自分の描いた計画を守ったことを責めるのと同じだ。
別の人は、一日の過ごし方を自分で決められる余地が減ることを受け入れて、会社を大きくする。より多くの人を説得し、より重い約束を引き受け、以前の状況なら避けられたはずの問題を乗り越えなければならない。その志を自分で選んだのなら、そうした困難もその一部だ。人生の選択を間違えた証拠ではない。
二人とも、自分の選択を後悔するかもしれない。何かを諦めたからといって、どちらも保証を得たわけではない。それでも少なくとも、自分に何が起きているのかを理解できる可能性はある。自分の望みを一度もはっきりさせてこなかった人は、反対の助言に従うべきだったと思い続けることになる。
大きな冒険に伴う評価を求めながら、慎重な生き方の条件も維持したいという人たちに、私は多くの混乱を見る。会社には巨大になってほしいが、その周囲に整えてきた暮らしは何一つ乱されたくない。大切なものを何も差し出さずに済む選択から、並外れた結果を得ようとしている。
成功するには苦しまなければならない、という意味ではない。苦痛は、どんな戦略の正しさも証明しない。平凡なアイデアのために危険を冒し、何もつくらないまま疲れ果てることもできる。問うべきなのは、ある明確な志のために、どのような困難なら受け入れるかだ。リスクそのものを求めることも、リスクをなくしたと言い張ることも、同じように悪い結末を招く。
問題は、私たちが静けさのなかで選べることは、めったにないということだ。周囲ではほかの人たちが報酬を与え、何が称賛に値するかを決めている。その判断によって、私たちは、見た目だけが好きな人生を望むようになることがある。

他人が拍手を送る人生
小さな会社を経営するのが好きなのに、それを口にするのが恥ずかしいということがある。大きな計画を掲げて称賛される人たちを見て、自分も同じ志を宣言しなければならないように感じる。やがて、自分を幸せにするものとはほとんど関係のない基準に従って生きるようになる。
逆に、事業を大きく広げたいという強い望みがありながら、それを残念ながら避けられない義務のように語ることもある。みんなを安心させ、本当は質素な人生のほうがよく、これほど努力しているのも、そうしなければならないからにすぎないと説明しなければならないかのように。なぜだろう。志を抱くことが好きでもいい。後世に残る仕事をしたいと望み、そこに朝起きる理由を見いだしてもいい。
私は、自分の望みを一つひとつ道徳的に正当化する人より、自分が何を望んでいるかを引き受ける人のほうが好きだ。自分の生き方が誰にとってもよいものだと証明する必要はない。その結果を背負えるだけでも、十分なのだ。
そのためには、志と、承認を求める気持ちを区別しなければならない。偉大なことを成し遂げたいという望みと、他人に偉大だと思われたいという望みは、最初のうちは同じ行動につながるかもしれない。しかし、仕事が報われないものになった途端、二つの望みは分かれる。誰も見ていないとき、結果がなかなか出ないとき、威光が消えたとき、その意欲はどれほど残っているだろうか。
栄光には、もちろん認められたいという願いも含まれている。私は、自分のプライドをどこかに置いてきたふりをするつもりはない。ただ、その評価が、実在する何かに結びついていてほしい。そうでなければ、やがて会社を築く以上に、自分の人物像をつくり上げることに心を砕くようになる。
だから、本当に何を望んでいるのかを知るには、社会的な報酬だけでは足りなくなる瞬間に目を向ける必要がある。求めていた目に見えるしるしをすでに手に入れたあとも、何に関心を持ち続けているだろうか。

十分に手に入れても、なお続くもの
「いつになったら十分だと思うのか」という問いは、多くの場合、人が何かを追い求めるのは、欠けているものを埋めるためだという前提に立っている。そうであることもある。自由になるのに十分なお金を稼ぎ、自分はここにいてよいと思えるだけの評価を得て、ようやく休める立場までたどり着きたいのだ。
しかし、その説明だけですべての志を語ることはできない。その営み自体が好きだから続けることもある。つくるのをやめられるのに、なおつくり続けると決めた人が、必ずしも何かの傷を癒やそうとしているとは限らない。代わりに勧められる人生より、単にこちらの人生のほうが好きなのかもしれない。
子どものころ、私は征服の物語が好きだった。心を奪われたのは、すでに多くを手にした人が、それでも先へ進むと決める瞬間だった。その危険も見えていた。遠くまで進む力となる意志が、最後には、それまで生み出したすべてを奪い去ることもある。この矛盾は、いつも私の心を動かしてきた。
起業にも、同じ矛盾がある。会社は、世界の一つのあり方を提案し、それを形にするために働くことを可能にする。あるものが別の方法でつくられ、あるサービスが実現し、当たり前に思われていたやり方が置き換えられる。未来について、いくらでも長く議論することはできる。それでもある時点で、誰かが自分の資源を投じ、一つの可能性を現実にする。
私が引かれるのは、その役割だ。すでにうまくいっているもののなかに落ち着きたいという思いより、まだ存在しうるものを見てみたいという思いのほうが、私のなかでは強い。均衡を求める人たちのことは理解できる。自分の気質に伴う代償も知っている。それによって自分が優れているとは思わない。ただ、この気質は、他人の人生を望んでばかりいずに、自分がそのなかで生きていける人生を選ぶことを、私に求める。
もう一度
幸福か栄光かを選んでも、それで人生が一度で定まるわけではない。状況が変わり、失うものが増え、慎重さが具体的な選択肢になったとき、その問いは戻ってくる。まだ何も持っていないときに、自分は冒険を好むと言うのは簡単だ。立ち止まることができるようになると、この問いは別の重みを持つ。
私は、立ち止まる可能性を軽んじてはいない。平穏、自分で使える時間、輪郭がなじみ深くなっていく暮らしには、計り知れない価値がある。新たな冒険より、それらを選ぶ人がいることも理解できる。ただ、その生き方が分別あるものだと思う人たちを喜ばせるために選ぶ人生を、知恵と呼ぶつもりはない。
Naijmで私は、まだその限界を知らない志に、再び時間と力と資源を注いでいる。遠くまで進める人たちとともに、意味のあるものをつくりたい。そこには、背負わずに済ませることもできた責任や問題が生まれる。始める前から、それはわかっている。
ここで述べた意味での幸福を選ぶこともできる。均衡を守り、残しておきたいものを軸に、これからの生活を組み立てることだ。しかし、最後には何が物足りなくなるのかがわかる程度には、自分を知っている。私はまだ、つくられつつあるものに加わり、そこに自分の構想を託し、私たちがどこまで行けるのかを知りたい。
Naijmで私は、もう一度、栄光を選ぶ。